1999-06-29 第145回国会 参議院 農林水産委員会 第21号
さっきも話がありましたけれども、登呂遺跡を見に行くとわかるんですが、農村社会というのは共同で水を引いてきて、共同でみんなで水田をやっています。
さっきも話がありましたけれども、登呂遺跡を見に行くとわかるんですが、農村社会というのは共同で水を引いてきて、共同でみんなで水田をやっています。
高地性弥生大集落と四隅突出型墳丘墓がセットで見つかった例としても大変珍しいということが言われて、さまざまな研究者や学者が当地を訪問して、さまざまなコメントを発表しているわけですが、島根大学の田中教授が、五十年前の登呂遺跡以上の発見で、弥生大乱時代の集落構造を知ることができる我が国唯一の遺跡だ、現地がなくなっては国の成り立ちの研究が数十年もおくれをとる、こういう危機感を募らせるコメントを発表しております
同校を後に、国の特別史跡である登呂遺跡と出土品を展示した登呂博物館、県が生んだ染色の第一人者である芹沢ケイ介の作品とコレクションを展示した芹沢ケイ介美術館の視察を最後に、派遣日程を終えました。 なお、本報告で詳細に触れることのできなかった静岡県の要望につきましては、本日の会議録の末尾に掲載していただくようお願い申し上げます。
最近、群馬県高崎市日高というところに、登呂遺跡にもまさる水田跡、及びそこで共同生活をいたしました人たちの集落の跡、また墓地というものが発見をされたということを大臣御存じだと思いますが、いかがですか。
私、考古の専門家でございませんので、その価値がどっちが高いかというようなことはなかなか簡単には申せないと思いますが、杉原先生のお話など伺いますと、今度の遺跡は非常に方式が違う、同じたんぼであっても、登呂遺跡の場合には溝が掘ってあって、区画整理されたたんぼである。この場合には非常に珍しい不整形の形であって、水のとり方も全然違っておる。
そのために大量の火山灰がこの地域に降り注いだわけでございまして、そこに住んでおられた方々にとっては大変不幸な出来事だったと思いますが、しかし、それが登呂遺跡以上に——約千七百年くらい前ですね。弥生後期の水田跡あるいは住居の跡、墳墓跡というものを大変よい状態で保存をしてきた。そういうことはわれわれにとってみれば大変ありがたいことといいますか、よかったことではないかと思います。
さらには、古く登呂遺跡であるとか、あるいはまた岩宿の遺跡の石器が発見されたとか、こういうふうにして日本人の祖先が、非常にまだまだ未開発な時代に農業生産をやり、あるいはその生産力に応じて国の形、国家権力、こういうものがそれぞれ変わりもし、また進んできたかということもわれわれに最近教えてくれているわけです。昔の人よりもわれわれの方が、どちらかと言えば昔のことをよりよく知っているわけですね。
大臣、せっかくでございますので——大臣の地元の登呂遺跡に匹敵するような遺跡が伊場であろうというふうにいわれております。登呂は御配慮いただいてああいうような形になっておりますけれども、伊場遺跡についても、開発と保存の調和の中で史跡公園のようなものをつくりたいというようにいわれております。
保存するとするならば大きな水たまりをつくるか、あるいは登呂遺跡のような模型をつくるかという形で保存する以外に方法がないだろうと思います。 いずれにいたしましても、あなたがいまおそらく希望しておられるところは、開発と保存との調和をとってくれというところに、これは相矛盾するあれがありますけれども、切実な願いがこもっていると私は拝聴いたしております。
それは登呂遺跡の問題と同じように、発掘をしたものはどうせ木だとかあるいは種だとかもみだとかいうふうなもので、そんなものは空気にさらされたら完全に風化してしまうわけです。しかもあの発掘をした切断面というふうなものは、土の色で、ここまでがもとの水田の上であったとか、あるいはこの土の色をしているところがもとのみぞであったとかいうものだったわけです。
登呂遺跡のように、一たん発掘をして、そしてそれをまた土をかぶして埋没さしておくというような形でもって保存をするのも、そのとき私ども一緒に視察をしたはずです。ところが、岡山のこの総合グラウンドの中の発掘をしたものは、一体その後どういうふうに処置してあるのか、それが私はまず第一番心配なんです。
○多田省吾君 まあ長官が新聞等に発表されているのを見まして、非常に前向きのお考えだと思ったのですが、いまのお話を聞きますとなかなかたいへんだというようなことで、まあそれに違いなかろうと思いますけれども、いままでの現状が、あの文化財保護法ができてからすぐに静岡県の登呂遺跡に工事がかかる、あわてて中止命令を出したところがもうすでにセメントの流し込みが終わったとか、そういう事態がもうずっとたくさんあります
実際問題として先ほども申し上げましたが、登呂遺跡の南側、あれも水田ですね。だけれども、実際問題としてあなたたちがやろうと思ったところが、たいへんな遺跡が出たでしょう。それで結果的に、あれは高架になりましたね。道路公団としてはもうばく大な損害ですよ。事前に調査をしていたら、そんなことは実際問題としてはないのです。
登呂遺跡の南側の水田の場合だってそうでしょう、東名の場合だって。そういうことは前からわかっているんです。わかっておるから、事前調査をせよというんだけれどもしない。
実際にいままでの例を見ましても、あの登呂遺跡というものをごらんになったろうと思いますが、どうもあれは大した残し方じゃございませんで、あの登呂遺跡につきましては、いろいろな方が研究書を発表しております。調査報告書もございます。ことに今度の岡山のほうの第二回の発掘団長をなされた八幡先生の登呂の発掘の記録というものは、私は非常にりっぱなものだと思います。あのりっぱな著書の何分の一も残されていないのです。
たとえて申しますれば、たとえば遺跡である登呂遺跡であるとか、あるいは千葉の貝塚だとか、あるいは宮崎県の西都原の古墳群とか、その他たくさんございますけれども、そういうような施設につきましては、都市計画のほうからむしろ積極的に緑地または公園としてこれを指定いたしまして、それをむしろ積極的に都市施設として取り入れることによりましてこれを保存するというようなことを考えてまいっておるわけでございます。
○説明員(安達健二君) 遺構としましてはあぜであるとか、それからみぞのようなものでございまして、これは弥生時代の後期になりますが、登呂遺跡とかにはございます。それから後期ではなくて中期でございますと滋賀県の大中ノ湖南遺跡というのがございます。こういうところではいわゆるあぜとか、それから水路の遺構が出ているわけでございます。
○和島参考人 ただいま杉原教授が申されたとおりでございますが、一口に申しますと、遺跡はそれぞれみんな人間が顔つきが違うように個性がございまして、津島遺跡を登呂遺跡と比較いたしますと、登呂遺跡は国の特別史跡になっておりますが、そのゆえんは、あそこでは弥生式の後期の集落と、それからその生産の場である水田がまとまって調査もでき、保存できる。そういう遺跡は日本でただ一つしかいままでございませんでした。
こわす際に多少日時と予算をかけて一ぺんよく調査をすれば、学問上非常に貴重な事実が十分つかめますし、それから発掘物も出てきましょうし、あるいはこれは非常にユニークな、また代表的なものだから何としても残さなければならないというものが、当初の予想とは違って新たに発見されるという事態もありますし、そういう場合には、先ほどの登呂遺跡ではありませんけれども、計画についてその部分は十分検討をしていただくということも
それから次に、これから本論に入るわけでございますが、それぞれ公団の関係者は、必要な調査費等を支出して、文化財があるというところについては御調査をなさり、登呂遺跡のように、計画変更までされまして、また県側の協力も得てこの保存に最大限の努力をされておる、こういうたいへん大きい成果もあがっておるわけですが、その反面、私が幾つか、これもほんの九牛の一毛ではないかと思いますが、承知しておる範囲だけでも、実は貴重
○長谷川(正)委員 私も心配しておりました学問上非常に貴重な遺跡であります登呂遺跡が、途中で設計変更といいますか、計画変更までしていただきまして、一応ある程度保存の道が講じられ、また、発掘調査においてかなり貴重な事実が明らかにされたということは非常によかったという気持ちでございます。
今日、最近の問題としても、多くの人々に憂いを深くさしております問題だけでも、関東は千葉県の加曾利貝塚の問題、あるいは関西にいきますと、田能遺跡の問題、藤の森、山道山古墳の問題、静岡の登呂遺跡の問題、中国にいきますと広島の三次市にあります太郎丸古墳の問題、山口県にいきますと、本土にたった一つといわれておる石城山の神籠石遺跡の問題あるいは西日本最大といわれておる下関綾羅木郷台地彌生遺跡の問題、こうした非常
そこでできるだけこの遺跡の保存に万全を尽くすために、次善の策として、道路公団の道路の計画は、登呂遺跡あたりの部分ですと、地表に盛り土をしましてその上に道路をつけるというような計画のようでございますが、そういう計画のままで道路をつけてしまいますと、遺構が実際問題として将来研究できなくなる、極端に言えば破壊されるという結果に相なりますので、重要な遺構の部分につきましては、たとえば道路を高架といたしまして
第一は、過般新聞でたびたび報道されております登呂遺跡の問題ですが、最近、発掘調査の結果、学問的にも非常に貴重な幾多の新しい発見がなされているように新聞報道等で拝見しておりますけれども、これにつきまして、ごく要点だけでけっこうですから、その新しい成果並びに新しい発見と申しますか、発掘に伴って、この貴重な文化財の保存に対して今後どのように配慮をされようとしておるのか、その点についてお伺いします。
○村山政府委員 登呂遺跡につきましては、指定地の南側に東名高速道路が建設されることになりまして、指定地外でございますが、地下には登呂遺跡の延長としての遺跡があるのではないかという予想のもとに、道路公団の協力を得まして、静岡県の教育委員会が考古学者等の協力も得まして、去る七月二十日から八月十日まで二十日間にわたりまして発掘調査をいたしまして、その結果東名高速道路予定地の地下に南北に走る水田の水路や水門
○政府委員(村山松雄君) 今回の調査で登呂遺跡の全貌をつまびらかにするというようなことはとうていできなかろうかと思いますが、一応、道路予定地の調査だけは何とかつかめるのではないかという予測のもとにやっておるわけでございます。
高速道路が登呂遺跡の付近を通りますにつきましては、申すまでもございませんが、 この登呂遺跡は、全国数多いいろいろそういうものの中で最も有名であり、したがって考古学上、その他学術上非常に大事なものであるということは私どもも十分心得ております。
○小林武君 私の質問したいのは二つございまして、一つは登呂遺跡の問題、一つは加曽利貝塚の問題です。初めに登呂遺跡の問題をちょっとお尋ねいたしますが、その前に、八月十五日、私は静岡市に参りまして、登呂遺跡について一応見てまいりました。その際、道路公団の静岡県の責任者の方ともお会いしたし、それからさらに現場の出張所の責任者とも会いました。
それから下の方へ参りまして、アラビア数字の四番の埋蔵文化財の保存施設でありますが、これは長野県の平出遺跡及び静岡県の登呂遺跡の保存施設を行いたいと考えております。新しく来年度あげまする費用は項目は大体以上のようでありますが、補助金の経費の中心といたしましては、二枚目の紙の一番初めに載つております文化財保存事業費でありますが、これが約九千万円の増額になつております。
ただ一点登呂遺跡につきましては、大体今年度で予算が打切られておるようでありますが、これは関係者の言葉をかりて申しますと、いま一歩進めまして——その当時の墓場の状況を知るためには、いま一歩進んで発掘をするならばという意向がありますので、できればそれが移されるまで国家の補助を要請するという声が多かつたように思うのであります。
○森田説明員 御承知の通りに、登呂遺跡は埋蔵文化財の発掘という点からいたしますと、文化財保護委員会の主管になつておるのでありますけれども、従来の発掘事業そのものは、日本学術会議の学術研究として、研究費をもつてこれを発掘いたしておるのであります。従いまして、現在におきましても学術研究会議の方の研究、つまり文部省の学術研究の部面において、これが発掘、調査を遂行しておるのであります。
登呂遺跡についてであります。これは駄弁は弄しませんが、けさ御報告の中にもちよつと述べておいたのでありますが、将来墓場を発掘し得るような程度まであの発掘事業を御継続になる御意思ですかどうですか、ちよつとそれをお漏らし願いたいと思います。
かくして二十九日夜大阪駅発東上、翌三十日静岡市登呂遺跡を踏査いたしました。この遺跡につきましては本委員会におきましてしばしば紹介せられましたので、いまさら申し上げる必要はないと存じますが、とにかく農耕地までも含めた古代聚落の遺跡は実は世界でもまれなものでありますので、ぜひとも予定通りの完全発掘を行いたいものであります。
しかもこの科学研究費というものは、今回日本学術会議ができまして、科学者の総意によつてこの研究費をどのように能率的に有効に使うかということを研究することになりましたので、この登呂遺跡についても、どの程度の経費をこの方面に振向けるのがいいかということは、これは研究者の総意によつて、ことに人文科学方面の研究者の價にこの價値を知つておられる方々のお心持によつて、研究費を支出する方がいいのではないかという点もありますので
○岡(延)委員 登呂遺跡調査会補助の問題でありますが、この登呂遺跡調査会に対する補助の問題は、第一回國会において請願が採択されて以來、文部委員会においてはこれに対して重大な関心を拂つておつたのでありまして、その具体的現われとしまして昭和二十三年度から五箇年計画でもつてこれに補助して行こうということになりまして、昨年はこの調査会に五十万円の補助が行われておつたのであります。